interview

二つの脳と千の眼を持つ男s-ken。

または、

豊潤な音楽の地下水脈としてのs-ken & Hot Bomboms。

文:川勝正幸(文化デリック)

 

s-kenがアーティスト活動を休止してから16年! ということはプロデューサー活動を精力的に始めてから16年が経つ。

まだ日本においてプロデューサーという仕事の市民権があまり得られていない70年代から手がけた作品に“produced by s-ken”というクレジットを冠してきた男でありながら、90年代のTK(小室哲哉)やつんく♂の如く、メディアにオレオレな勢いでは露出して来なかったため、彼のイイ仕事と彼の名前や顔が結びつくのはミュージシャンたちや音楽関係者に限られている。本人は一度見たら忘れられない! 強烈過ぎる個性の持ち主であるにもかかわらず。 もっと言えば、s-kenのプロデュース術は誰でもオレ色に染める○○サウンドではなく、新進のアーティストの可能性を拡げるスタイルだから、という本質的な理由も大きいだろう。 現在、s-kenは「World apart ltd」の代表取締役プロデューサー(99年~)として知られている。 PE’Zから中山うりまで!多くの才能を発掘し、世の中のヒットチャートに迎合しないスタイルで、かなりの確率で、音楽的にだけではなく、ビジネス的にも成功へ導く離れ業をやってのけてきた。

s-kenは生年月日非公開なので、彼が双子座かどうかは分からないが、昔から「アーティスト脳」と「プロデューサー脳」二つの脳を持つ男として八面六臂の活躍をしている。70年代半ばのニューヨークの<CBGB>や<MAX’S KANSASCITY>でのちにパンクと呼ばれるムーヴメントを目の当たりにしたs-kenは、帰国後の78年からバンド「s-ken」を結成。六本木に「s-kenスタジオ」も運営。フリクション、Mr. Kite、MIRRORSと「東京ロッカーズ」と名乗り、パンク世代より半回り上の矜持を持って、サウンドだけではなくファッションを含め猿真似ではない、日本独自のパンク・ムーヴメントを牽引した。

84年、s-kenはソロ・アルバム『ジャングル・ダ』(85年)を作るために、「東京ロッカーズ」とは一線を画す、自分より若い、才能溢れる生意気なミュージシャンたちを集めて(マイルス・デイヴィスよろしく?)、s-ken & Hot Bombomsを結成。そして、s-ken & Hot Bomboms名義で『パー・プー・ビー』(87年)、『千の眼』(88年)、『セブン・エネミーズ』(90年)と、3枚のアルバムを発表する。レコード毎にサウンドの進化/深化はあれど、基本は「路上のルーツ・ミュージック」か。レゲエ、ニューオリンズからラテン――ルンバ、メレンゲ、そして当時はうさん臭い音楽としてあまり顧みられていなかったブガルーまで、異文化交配都市が生むリズムを、TOKYOの生活者としての視点に、『ブレードランナー』(82年)、『ニューロマンサー』(84年)など映画や文学の力を借りた幻視力を混入し、デフォルメした。s-kenは、s-ken & Hot Bombomsの活動と併行し、「TOKYO SOY SOURCE」(86年~)、「カメレオンナイト」(89年~)……とイベント/パーティをオーガナイズし始める。

ところが、「JAZZ HIP JAP」(92年~)、「チャンスレコード」(93年~)、「SOUP UP」(96年~)、「マージナルライン」(96年~)……と、 レコード会社内のレーベル・プロデューサーとしての活動が多忙となり、91年からは結果的にプロデューサー専業となる。16年間の仕事で発掘された才能はマンディ満ちる、DJ KRUSH、浅田香織(のちのBONNIE PINK)、SUPER BUTTERDOG、クラムボン……と、枚挙にいとまがない。これらのアーティストは多彩でありながら、どこか1本筋が通っているように見える。そう。音楽的態度においては共通する匂いを感じてしまうのだ。 s-kenの脳内に渦巻く未知なサウンドを、窪田晴男、ヤヒロトモヒロ、今堀恒雄ら凄腕のミュージシャンたちが具現化した約20年前のs-ken & Hot Bombomsの4作品は、2007年の耳で聴いても新鮮だった。 というか、当時はポスト・ニューウェイヴにしては猥雑で、エッジーと感じた音楽が、その後の日本の志の高いミュージシャンたちの闘いの歴史のおかげで耳が慣れたというか、ある種の王道感すら感じてしまい、驚いた。 それはs-ken & Hot Bomboms時代に「千の眼」を得たs-kenの、その後の長年のプロデューサー活動の影響も少なからずある、と書いても、お世辞にはならないだろう。

 

過去に興味がない男が、初めてs-ken & Hot Bombomsを振り返る。

取材:川勝正幸(文化デリック)/構成・文:君塚太(DO THE MONKEY)

s-kenと探偵とギャングと

 

――s-kenのアルバムは、s-ken & Hot Bomboms以前の、ソロ作品においても各レコードごとにキーとなるイメージを強く打ち出していました。『魔都』(1981年)なら「探偵」だったり、『ギャング・バスターズ』(83年)なら「ギャング」や「殺し屋」だったり。これらの制作のスタイルは、ジャケットのヴィジュアルも含め、初めにコンセプトありきだったんでしょうか。

s-ken 僕はもともと、いすず自動車に(システム・エンジニアとして)勤めながら、ヤマハ(財団法人ヤマハ音楽振興会)の作曲家養成所みたいなところにいたんです。最初のグループのピース・シティーも、作曲家集団みたいなものだったのが、グループを組むようにいわれて、たまたまデビューすることになっちゃった。だから観客を熱狂させるパフォーマンスより、ものをつくることのほうへの興味が高かかったんです。

僕のパフォーマー的なワイルドな部分が初めて出たのは、東京ロッカーズが最初だと思うけど、自分がアーティストとして前面に立たなきゃいけなくなったときに、音楽だけじゃなくて、本を読んで得た知識とか、映画を観てきた体験とかが連動して、自分がパフォーマンスするならこのイメージ、というアイディアが出てきたんだと思います。ただ、僕は影響を受けているものがやたら広いジャンルにわたっていたから。なんというか、知識欲というか、好奇心が強いんでね。アメリカに渡ったときも、既に自分の好きなテイストってあったんですよ。ロサンゼルスでいえば僕のイメージはレイモンド・チャンドラーの小説。音楽だとブライアン・ウィルソンとランディ・ニューマン。だからパンク・ロックをやるにしても、単純に向こうバンドに憧れて、同じファッションをしたいとは思わないんですよ。髪も逆立てたりしなかったし。実際にニューヨークで体験したパンクは、アーティストたちも別に奇抜な格好をしていたわけじゃなかったしね(笑)。

『魔都』でも『ギャング・バスターズ』でも、そんな感じで自分のアーティスト・イメージが出たんじゃないかな。『魔都』に関しては、東京ロッカーズの総決算というか、東京ロッカーズ卒業記念アルバムのつもりだったけど、探偵にしろ、ギャングにしろ、殺し屋にしろ、曲をつくっているうちに、たまたまそういうイメージが出てきたんだと思う。最初にコンセプトがあるんじゃなくて、どんどん好きな曲をつくっていって、最終的にアルバムをまとめる段階になったときに、「こういう感じかな?」というイメージが立ってくるんですね。最後の2~3曲は、そのコンセプトに合わせてつくることもありますけどね。だから自然の流れでそうなっちゃったという感じで。

――本名の田中唯士として曲をつくることと、それをs-kenとしてパフォーマンスすることが、徐々に重なってきたわけですね。

s-ken だいたいs-kenという名前自体が、路地裏のSの字合戦(昔の子供たちの遊び)から来ているわけですから、遊びながらケンカするみたいな、ゲーム性を持っているわけです。だから本当の自分、田中唯士はここにいて、遊び回っているキャラクターは別なんですよ。『男はつらいよ』の寅さんもそうじゃないですか。渥美清と役柄の車寅次郎は違うわけですよね。それが全部自分で曲をつくり、歌もうたい、パフォーマンスをするようにになって、自分の描く想像の世界の自分と、本当の自分が年を追うごとにどんどん近づいていっちゃったんですね。もし、僕がその後もずっといすず自動車に勤めていて、働きながら小説を書いていたとしても、出てくる主人公はアルバムの中のs-kenみたいなキャラクターになっていたと思いますね。

路地裏のルーツ・ミュージック

――『ジャングル・ダ』(85年)はs-ken名義のアルバムですが、事実上、s-ken & Hot Bombomsのデビュー盤といってよいと思います。この作品に関しても、前2作と同様、自然に、あの強烈なイメージができ上がっていったんでしょうか。

s-ken そこは変わらないんだけど、『ジャングル・ダ』は僕にとって分かれ目になったアルバムではあるんですよね。『ギャング・バスターズ』までアルバムに参加してくれていた人達から離れて、Hot Bombomsを結成したわけで すから。あの当時「このまま行くと、自分が構想している音楽が表現できなくなるな」という気持ちがあったんです。それまでのパンク・ロックから発展したメンバーだとちょっと無理だと。

――東京ロッカーズの人脈でつくる音楽と、s-kenの頭の中で鳴っている音楽が乖離し始めた、ということですか。

s-ken はい。構想が進んで、曲だけはどんどんできてくる中で、「これはマズイな」と。それで一からメンバーを集めたんですよ。最初に声をかけたのは窪田(晴男)君。彼は当時やっていたイベント「ニポニーズ・ナイト」がきっかけで、知ってはいたんです。僕はね、彼がアレンジをやって、近田(春夫)さんがプロデュースした平山みきの『鬼ケ島』が大好きだったの。それで平山みきを「ニポニーズ・ナイト」に招んだら、彼がバンマスで現れたんです。めちゃくちゃ生意気な奴だなあと思ったなあ(笑)。ほら、若い時の窪田って、すごく理屈っぽいところあったじゃない。それ以降、付き合いはなかったんだけど、僕が『ジャングル・ダ』の構想を練っているときにバッタリ山手線かなんかで会ったんですよね。それで僕がいきなり「こういうバンドをつくりりたいんだけどさ、ギターやってくれよ」といったら「やるよ」って、すぐに決まっちゃった。そこから窪田君の関係だったり、僕が探したメンバーが集まって、でも、メンバーは集まっても、うまく自分が考えている音楽を伝えることができなくてねえ。当時は音楽のジャンルごとに、ミュージシャンの志向も分かれている時代だったから、『ジャングル・ダ』みたいなタイプものは、なかなか伝わりづらかった。前例がないしね。当時の感じでいえば、若干、キッド・クレオールと近いところもあるんだけど、あれも理解できる奴が少なかったんだよね。

――レコード会社は、メンバーが集まって練習を重ねてから決まったんですか。

s-ken 僕はパンク・ロック出身だったから、そのままパンクをやるとプロモーションもしやすいと思うんだけど、レコード会社にすれば、何かわけのわからない音楽ができちゃったな、という印象だったんじゃないですかね。でも、メンバーが集まって、だんだん音はでき上がってくるじゃないですか。もう演奏は素晴らしいメンバーだからね、かなりクオリティが高いものにはなってきたので、1枚だけでもいいからどこか出してくれる会社はないかなあと思っていたんです。それでサウンドがまとまり始めたところで、(音楽出版社の)フジパシフィックに協力してもらって、CBSソニー(当時)からのリリースが決まったんです。

――『ジャングル・ダ』の完成まで、構想がブレなかったということは、やりたいことが初手から明確だったんですね。

s-ken それははっきりしていましたね。編集者時代に2年半、アメリカで色々な音楽を捜したり、細野(晴臣)さんと語り合ったようなことを全部合わせて「ああ、こういうことしよう!」と思いついたんです。まあ、『ギャング・バスターズ』の中にも何曲かは、『ジャングル・ダ』の構想に近い曲もありましたけどね。「恋のバカボンド」とか。

――確かに。『ギャング・バスターズ』は東京ロッカーズ時代とHot Bomboms時代をつなぐ過渡的なアルバムでしたね。さて。『ジャングル・ダ』は、ラテン(メレンゲからブガルーまで)やルーツ・ミュージック(レゲエからニューオリンズまで)を、今でいうところの昭和歌謡的な視点でデフォルメした、日本人にしかできないサウンドを構築しています。

s-ken パンクだと8ビートだけになっちゃう。僕が理想だと思っているのは、自由に好きなリズム・アレンジをして、それを一つのバンドでやるということだから。そこに自分にとっての懐かしいもの、アメリカで感じたエキゾチックなものを入れたいなあと。カヴァーだけどキューバの「シャンハイ」という曲が入っているでしょう。ああいう感じ。

――今回、『ジャングル・ダ』を聴き直して最初に思ったのは、Hot Bomboms童貞/処女の若い人たちが初めてこのアルバムを聴くと、クレイジーケンバンドの先輩だ! と感じる楽曲が少なくないのではないか、と。

s-ken あるかもね。一番最後の曲(「ゴールデン赤坂」)とか。

――なおかつ、細野さんがエキゾチカ三部作――『トロピカル・ダンディー』(75年)、『安泰洋行』(76年)、『はらいそ』(78年)――でやったアプローチとも違う。

s-ken やっぱり僕の場合は、パンクやニューウェーヴを通過しているから。パンク・ムーヴメントが一段落したときに、海外でも僕に近い形で変身していったミュージシャンが若干いたんですね。エルヴィス・コステロとか、(スタイル・カウンシルを結成した)ポール・ウェラーとかトーキング・ヘッズのデイヴィッド・バーンとか。それがわかったときに、自分もニューウェーヴというサーキットの中にいるんだなと実感しましたね。あとは僕には僕なりの都市観があって、そこが細野さんとは違うんじゃないですか。なんというか、ある種、場末というか、路地裏というか。日本語で表現できるのって、欧米的なストリートじゃなくて、東洋的な場末のネットワークだと思う。そういう意味で『ジャングル・ダ』は、ずっと考えていた自分なりの都市観を、やっと表現できたアルバムだと思います。

――s-kenとしても、達成感があったわけですね。

s-ken このアルバムが世に出るとは思っていなかったからね。もう、リリースされただけでうれしいという感じで。つくり上げて世に出すことに必死だったこともあって、かなりルーツ・ミュージックの色がそのまま出た作品にはなっちゃいました。自分たちの体でちゃんと消化していくのは、次のアルバムに持ち越しという部分もあったと思います。そういう意味ではオリジナリティというより、コンビネーションの良さが『ジャングル・ダ』のいいところかもしれない。かなり元ネタが見えちゃうところはあるよね、ヴァン・ダイク・パークスの『ディスカバー・アメリカ』的というかね。

――ジョン・バターンの「サブウェイ・ジョー」のカヴァーもあれば、ドクター・ジョンへのリスペクト溢れる「ジャンビー」も入っています。

s-ken このアルバム出て、ずいぶん経ってから「『サブウェイ・ジョー』はs-kenに先にやられちゃったからな」なんて、よく言われましたよ。でも、当時はブガルーとかメレンゲやスカに関心持っている人は、周りには誰もいなかったからなあ。

SFと冒険小説、そして旅立ち

――『ジャングル・ダ』リリース後、今度はポリドール(当時)へ移籍。s-ken & Hot Bomboms名義で『パー・プー・ビー』(87年)、『千の眼』(88年)、『セブン・エネミーズ』(90年)の3枚をコンスタントに発表していく。

s-ken 『ジャングル・ダ』が終わって、Hot Bombomsのメンバーは、みんながいなくなっちゃうのかなと思っていたら(笑)、ずっとやる気でいてくれたんですよ。いや、実際みんな自分のバンドもあるし、超忙しいミュージシャンだったからね。ドラムの小田原(豊)だけはレベッカが大ブレイクしちゃって、さすがに(松永俊弥に)交代したけど。それとポリドールで3枚も出せたのは、ディレクターの青木(和義/「東京の10cc」と呼ばれたバンド、葡萄畑の元リーダーでもある)さんのお陰ですよ。リハーサルにも付き合ってくれてね。青木さんには本当に感謝しています。

――ポリドールでの1枚目『パー・プー・ビー』では、「異人都市TOKYO」(s-kenには88年に出版された同名の著書もある)や「ビッグ・カメレオン」など、都市への新たな視点、それも愛し方が大きなテーマになっていますよね。

s-ken Hot Bombomsを続けて良かったと思うのは、ルーツ・ミュージックと都市の生活感が混じり合ったような音楽がつくれるようになったということですよね。

――ルーツ・ミュージックを、ニューオリンズ風、ジャマイカ風……と本物志向で真似するのではなく、それらを日本の、東京の風土の中でどうリアリティを持たせる? という試みが面白かったと思います。

s-ken その分、どのジャンルにも属さないヘンテコな音楽になっているけど(笑)。

――無国籍感は高まっていますよね。そこに、リドリー・スコットがフリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(68年)を映画化した『ブレードランナー』(82年)や、ウィリアム・ギブソンのサイバーパンクSF『ニューロマンサー』(84年/86年に邦訳)にインスパイアされた、レトロ・フューチャー~デッドテック的世界観が挿入されていく。

s-ken 『ブレードランナー』は、僕にとってすごくエキゾチックなものに映ったんでしょうね。 最初に観たとき「これだ」と思ったことは確かだし。ウィリアム・ギブソンも今でも好きですよ。

――『千の眼』では、同じ都市に目を向けながらも、より目線が低くなっていますよね。

s-ken 『千の眼』というタイトルは、ヘンリー・ミラーの小説(『わが青春のともだち』)からの引用なんだけど、子供の頃のブルックリンでの、わかりやすい友達や隣近所の話なんです。だから『千の眼』に入っている曲、例えば「イヤダヨ」なんかも、浅草へ行って女とケンカして、みたいな、日常的な東京をスケッチしている感じになったんじゃないかな。

――『セブン・エネミーズ』では、大きなメンバー・チェンジがありました。

s-ken とにかくみんな忙しいメンバーだったので、窪田君とヤヒロ(トモヒロ)が抜け抜けることになって、「どうしようかな」と思っていたんですけど、今堀(恒雄)とスティーヴ(エトウ)が一緒にやってくれるというからね、これまたすごいバンドになっちゃったなあという感じでした。小田原も戻ってきてくれたしね。

――新メンバーでサウンドを固めていく段階で、楽曲のコンセプトも改めて練り直したんでしょうか。

s-ken 『セブン・エネミーズ』は「異人都市TOKYO」を離れよう、東京から旅立とうということなんです。最初の曲から、「わが船ハバナを発つ時」。何かヤバいことが起きて、飛び出して行くんだけど、最後の曲の「そしてエル・ドラドへ」で主人公はどこかへ消えしまうんです。『パー・プー・ビー』がSFだったら、『セブン・エネミーズ』は冒険小説ですね。

――「異人都市TOKYO」を離れて7つの海に旅立つ、わけですね。それでは最後に、『ジャングル・ダ』、『パー・プー・ビー』、『千の眼』、『セブン・エネミーズ』――約20年前に作られた4枚のアルバムを、プロデューサー業で多忙な現在のs-kenの目から振り返ってください。

s-ken 若い人たちのプロデュースをしていると、今まで見えなかったことが見えてくるという部分がかなりあるんですよ。プロデューサー業は91年から16年やっていますから、その中で得た知識とか経験を踏まえてやれば、同じアルバムをつくるのでも、もっと素晴らしいものができるなという気持ちはあるんです。自分で自分のプロデュースをするのは難しいですが、自分のやりたいことと、自分の持ち味みたいなことを、もっといいバランスで出せると思うんですよね。要するに自分の能力をうまくリスナーに伝えられるとどうか、ということなんですけど。今までやってきたことに後悔はないし、今回の再発も本当にうれしいことなんだけど、単純に再発万歳! とはならないんですね。僕は過去のことより、これからのことに興味がある。だから今、『セブン・エネミーズ』でエル・ドラドに消えた男が、ぶらりと帰ってくる、という新曲を録音しようと思っているんです。